

はじめまして、教室長のsakiです。
今回はLOGiCAL Palette(ロジカルパレット)のきっかけからはじまりについてお話ししていきたいと思います。
こどもの頃
私は両親が共働きで忙しかったため、幼稚園の後やお休みの日、体調を悪くしたときなど、いつもおばあちゃんの家で過ごしていました。こどもの頃はお母さんとお父さんよりもおばあちゃんとおじいちゃんと長い時間いっしょに過ごしていたと思います。
おばあちゃんの家で過ごしているとき、おばあちゃんと頻繁に行っていたのが「北田団地集会所」です。
「北田団地集会所」ではそろばんやダンスなどたくさんの習い事が行われていました。
おばあちゃんは「北田団地集会所」の管理をしていたため、集会所の整理をしたり、片付けをしたり、鍵の開け閉めをしたり、その間、私は黒板にお絵描きしたり、おばあちゃんのお手伝いをしたりとたのしく過ごしていました。
高専時代
父の影響で久留米高専に通い、文化祭など私がステージに立つ時は、おばあちゃんもみにきてくれました。高専ではたくさんのことを学びましたが、振り返ってみて思うのは、大切な友達、先輩に出会えたことがなにより1番の誇りです。
出産
いろいろとばしたな…とは思いますが、今回のタイトルはLOGiCAL Paletteのきっかけなので…。 私が第二子を出産してすぐに、大好きだったおばあちゃんは天国へいってしまいました。 もう二児の母である私は、強くありたい気持ちと、寂しさと、言葉にできない気持ちでいっぱいでした。
おばあちゃんが管理していた「北田団地集会所」は、その後おじいちゃんが管理することになり、おじいちゃんはそれはそれは大変だったと思います。
しばらく経って、おばあちゃんのいないおばあちゃん家に行くと、おじいちゃんは「北田団地集会所」の習い事が少なくなってきていること、活気がないこと、運営が厳しいことを私に話してくれました。
はじまり
そこで私は、自分が『できること』を必死に考えました。
自分が『やりたいこと』『どうありたいのか』…
当時、私の夫はプログラミング教室の講師をしており、よく話を聞いていました。 家庭教師や塾講師を経験していた私は、夫が勤めていたプログラミング教室の話を聞きながら、もどかしい気持ちを抱いていました。
私ならこう教えたい、もっと身近なものにしたい、もっと楽しく伝えたい…
頭を抱えているうちに、点と点が繋がってきたように思えて、
すぐに高専で出会った友達、先輩に話しました。
そしてすぐに小学校の先生をしている友達に「プログラミング教育」の現状についてや、小学校ではどんなことをしているのか、こどもたちの反応はどうなのか、話を聞きました。
同時に、小学校で行っている「プログラミング教育」を猛勉強。
高専の中でも、とてもとても優秀な友達といっしょに教材をつくっては、我が子にやってみてもらい、もっと夢中になるようにしたいよね、と工夫を重ね、いろんな案を出し合い、没にして、採用して、アレンジして。
ここから先はまた別の機会で。
二児の母であり塾講師・家庭教師・プログラミング経験者だからできることを
まわりの超優秀な現役エンジニアたちといっしょに
よりいいものにして世に出す。広げる。
そして思い出の場所である「北田団地集会所」 をはじまりの場所とする。
これが私が決めた『できること』であり『やりたいこと』。